Fashion Talkwith Carlo Kurobe
カルロ黒部のお洒落対談 vol.3 ⟨前編⟩

テーマ

Mediterranean

ファッションコンサルタント・評論家の黒部和夫氏がメンズファッションの半歩先を鋭く分析。
ユナイテッドアローズの鴨志田康人氏をゲストに迎え、“Mediterranean(メディテレーニアン)”をテーマに、
地中海の男を彷彿とさせるネイビーブレザーの着こなしについて語り合った。

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アイビーからブリティッシュアメリカンへ

黒部鴨志田さんが洋服に目覚めたのはいつごろだったんですか?

鴨志田年齢的にはヴァン世代の最後のほうで、中学・高校時代は『MEN’S CLUB』を読んで、服はヴァンヂャケットを着て、という典型的なアイビー少年でした。入り口はアメリカンアイビースタイルで、その後さまざまな経験をしたわけですが、思春期のころはアメリカがすべてだったし、やっぱり自分にとっての原点はアメリカですよね。

黒部僕ら世代がファッションに興味をもつきっかけは、だいたいアメリカントラディショナルでしたよね。僕も『MEN’S CLUB』を読んで、そこでブレザーというのはメタルボタンで、ジャケットというのはそれ以外の普通のボタンが付いたものを指すとか、いろいろ学びました。あと、アメリカントラディショナルのルーツは? といったことが解説されていたりして、それで英国のサヴィルロウがメンズファッションの本場であることを知ったんです。

鴨志田そうでしたか。

黒部鴨志田さんとの出会いは、僕が大学時代に『JJ』で記者のアルバイトをしていたときでした。そのとき、鴨志田さんは渋谷のファッションコミュニティー109(現・SHIBUYA109)にあったテイジンメンズショップで働いていたんですよね。

鴨志田“109”と言っても、現在の姿とはまったく違いますよ。1979年に東急電鉄がオープンさせたファッションビルで、大人も遊びに行けるおもしろい商業施設でしたから。

黒部そう、そう。いまみたいに若い女性向けの店だけじゃなくてね。

鴨志田僕は大学時代にテイメンでアルバイトをして、卒業後にビームスに就職しました。アルバイトを始めたのは大学3年のときだったかな。テイメンではいろいろ勉強させてもらいました。多摩美術大学でインテリアを専攻していたんですが、ちょっと性に合わないなと思って……。それより、自分の好きな洋服屋になったほうがいいと思ったんですよ。

黒部でも、どうしてビームスだったんですか?

鴨志田ビームスの3店舗目ができるときに「新しくお店を出すので、こっちに来ないか?」って誘われたんですよ。それでおもしろそうだなと思って……。当時のビームスはアメリカ西海岸のファッション&カルチャーを追いかけていましたが、これからは少しずつヨーロッパにも目を向けて、カジュアルだけじゃなくドレスクロージングの取り扱いも始めていこうとしている矢先だったんです。

黒部3店舗目というのは、ビームスFですか?

鴨志田いや、いまはもうなくなってしまいましたが、渋谷の神南にあったお店です。僕が入社したのはビームスFができた直後で、神南の店にも“F”で扱うものを配分して、ジャケットなんかも売っていくことが決まっていた時期でした。ビームスで働いている販売員はカジュアル系の人たちが多かったので、テイメンで重衣料の販売経験がある僕をメインの担当に据えてくれたんです。

黒部ラルフ ローレンのブリティッシュアメリカンみたいなスタイルが出てきたころですか?

鴨志田そうですね。徐々に入り始めていたころでした。1980年代初頭は、ジャケットだとテイメンで“Ⅱ型”と呼ばれていた、2ボタンひとつがけのモデルが多かったですね。ちょうどラルフ ローレンなども注目され始めて、それ以前のアイビーが古臭く感じられるようになり、「ジャケットは少しワイドラペルで、ボトムスも幅広のストレートが新鮮だよね、カッコいいよね」というように変わっていく最中でした。

黒部当時、80年代のニューヨークでは、キラ星のごとく新しいデザイナーが次々と頭角を現した時期でしたね。

鴨志田アレキサンダー・ジュリアンがいて、サルバトーレ・セザラニがいて、アラン・フラッサーがいて……。ちょうどそれまで停滞していたアメリカのファッションがヨーロッパの影響で、時代に呼応して新生アメリカントラッドとして開花したのはすごく刺激的だったし、あのころの『GQ』なんて、いま見てもカッコいいですからね。当時は、日本のアパレルがつくるものが嘘っぽいなって気づいた時代で……。読売新聞社から『Made in U.S.A. catalog』(1975年刊行)が出た時点で「やっぱり本物ってインポートものだよね」という雰囲気になって、その後インポートブームが起こりましたよね。

黒部そうでした。

鴨志田カジュアルだけでなくドレスクロージングも同じで、1979年にブルックス ブラザーズが日本に上陸しましたけど、ジャパン社がつくるライセンスものより、古着屋に並んでいるインポートもののほうが、自分たちにとっては本物だったんです。それを探し出してきては「やっぱり違うよね」「カッコいいよね」と言っていました(苦笑)。J.プレスやほかのアメリカのブランドもそうでしたね。

黒部わかります、わかります。

鴨志田あの時代「メイド・イン・ジャパンはカッコ悪いから着ない」という風潮が絶対的にありましたよね。70年代から始まって、80年代もそれを引きずって、いまだから言えますけど、あのころの洋服屋は自分たちが売る商品だからしょうがないけど、「オリジナルなんか着たくねえよ」というのが本音でした(苦笑)。インポートものばっかり着ていて、自分たち販売員はオリジナルをなかなか着ていませんでしたね。もちろん、いまは違いますよ(笑)。

黒部僕は鴨志田さんより1歳下なんですけども、アイビーを『MEN’S CLUB』で学んだあとに『Made in U.S.A. catalog』や『POPEYE』でアメリカ西海岸のカルチャーがドーッと入ってきたじゃないですか。でも、鴨志田さんは、そっちのほうにはいかなかったんですよね?

鴨志田そうですね。アイビー少年って東海岸に固執するんですよ。ウエストコースト・ジャズも聴かない、みたいな……(笑)。ホワイトジーンズ派でしたし、だいたい美大でホワイトジーンズをはいているヤツなんかいないんですよ。

黒部そうでしょうね。

鴨志田みんなロングヘアで、音は完全にウエストコーストですし、グラムも入ってきていたころでしょう。周りはブルージーンズだらけですから。

黒部そこでホワイトジーンズをはいていたんですから、珍しいというか、相当目立っていたんでしょうね。

鴨志田髪型もショートカットでしたし。「いまだに変わらないな、俺」って思いますもん。40年間、変わっていませんよね(笑)。

黒部僕は原点回帰の意味も込めて、去年の9月1日にオンワード樫山に入社した当時の髪型に戻したんですよ。

鴨志田そうなんですか。

黒部僕は80年代初頭にオンワード樫山に入社しましたが、当時のオンワードはアラン・フラッサーやラルフ ローレン、J.プレスなどを扱っていて、アラン・フラッサーをやりたかったんですよね。でも、最初の配属はJ.プレスでした。鴨志田さんは日本製のライセンスは着なかったと言いましたが、当時は3ボタン段返りでゴールドのメタルボタンが付いたネイビーブレザーと、夏物のウールトロピカルのスラックスが飛ぶように売れて、生産が間に合わないほどでした。

鴨志田はい、はい。

黒部百貨店のスラックス売り場では、いまみたいに棚にきれいにたたんで置くようなディスプレーじゃなくて、パンツハンガーにかけたスラックスをバーっと並べる、ピアノ什器と呼ぶんですかね。あれにかけて売っていたんです。でも、それにもかかりきらなくて、その下にも積んでね。それでも1日の終わりになると、チャコールグレーやミディアムグレーのプレーンフロントのスラックスにサイズ欠けが出るほどでした。あと、秋冬になるとネイビーのピーコートですよね。J.プレスのピーコートは、裏に赤いキルティングが付いていたんですが、それがもうとにかく売れて、8月の暑い時期に前年に買えなかったお客さんが予約で買いに来るんですよ。

鴨志田そういう時代でしたね。

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スタイリングの大切さを学んだフレンチアイビー

黒部後年の話になりますが、僕の印象に強烈に残っているのが、ユナイテッドアローズが渋谷に1号店をオープンさせたときのパーティーで、鴨志田さんがアラン・フラッサーのネイビージャケットを着ていましたよね。しかも、ビスポークだと聞いて、すごいなと思ったんですよ。あの当時、ビスポークする人はまずいなかったんで……。

鴨志田あれはユナイテッドアローズを創業する年に、これまでのおさらいという意味で、そのときのスタッフ6人全員で世界一周旅行をしたんですよ。

黒部ほう、ほう。

鴨志田ニューヨークに行って、サンタフェに行って、LAにも行って、ロンドンにもパリにも行って、本当にいろんなところに行きました。ビームス時代の経験をリセットするというか、フラットな目線で世の中を見て、次に何をやろうかというのを決める旅だったんです。そのとき、さまざまな洋服屋を見てまわったなかで、ニューヨークのアラン・フラッサーのお店にも行ったんですよ。確か、マンションの一室で、ビスポークというかカスタムテーラーショップをやっていましたよね。

黒部あの当時だと、52丁目のビルの中ですかね?

鴨志田そう、そう。中2階にあるちょっとアール・デコ調のお店でした。見学のつもりで訪ねたんですけど、なにせカッコよくて、ディスプレーしてあるジャケットを見て「これを買いたい」って言ったら、「カスタムだよ」って言うから、「構わない」って答えたんですよ。そしたら「次、いつ来る?」って。「しばらく予定がない」と答えたら、「それなら一発勝負だぞ」って(笑)。それで、仮縫いなしで仕立ててもらったんですよね。それを日本に送ってもらって、ちょうどそのとき着ていたんでしょうね。たまたまアラン・フラッサー本人が来日していたタイミングでしたね。

黒部鴨志田さんの姿を見て、ビスポークというものにすごく衝撃を受けたんですよ。

鴨志田あの当時は、ビスポークブームとまではいかないですけど、ロンドンのサヴィルロウの仕立てってカッコいいよねというムードがあったんです。ただ、さすがに我々の世代で、それを実際にやる人はほぼいなかったですよね。僕も初めての経験でした。

黒部ところで、ブリティッシュアメリカンを経たあとに、フレンチトラッドみたいな流れがありましたよね。

鴨志田ありましたね。特にビームスではフレンチアイビーに注目していて、ちょうど自分が入社したころもアメリカだけじゃなくて、ウプラのバッグなんかのヨーロッパのブランドもいろいろ仕入れ始めたころでした。当時のパリではエミスフェール(1979年に誕生したセレクトショップ。世界中からワークウェアや民族衣装など、趣味のよいものを集めた新感覚の店だった。93年閉店)が注目されていたんですけど、何がカッコいいかって、アメリカから学んだネイビーブレザーなんかのスタイリングにしても、フランス人がやるとまったく違うんですよ。よくいえば自由というか……。色合わせも、いわゆるアメリカンカラーではなくて、フランス人特有の中間色だったり、男性が着るとは思えないような色合わせだったり。それがシャツの色だったり、ネイビーブレザーに合わせるボトムスの色だったり、ソックスの色だったり。特にカラーコーディネーションが新鮮でした。その途端、「アメリカ、だっせえな」みたいになって(笑)。

黒部そうなんですよね。

鴨志田サッと切り替わるんですよ(笑)。

黒部僕がパリのエミスフェールを訪れたときの思い出は、壁一面の棚に50色ぐらい発色のきれいなニットが整然と並んでいたことでした。あの様子は、圧巻でしたね。

鴨志田グレンマック(創業から200年以上の歴史をもつスコットランドの老舗ニットウェアメーカー)ですよね。

黒部1980年代前半には六本木に日本店もありましたしね(その後、青山に移転し、2012年に閉店)。いま考えるとすごいものを売っていましたよね。

鴨志田すごかったですよ。スーツはチェスターバリー(1935年に英国で創業した“スーツ界のロールスロイス”と称されるブランド)だし、とにかく世界中から一流品を集めていましたね。そのとき、初めてオルテガのチマヨ・べスト(アメリカ南西部を代表する手織りの工芸品)をネイティブアメリカンっぽく着るんではなく、ウールのフランネルのパンツとチャーチの靴を合わせているのを見て、それまでの自分のファッションに対する概念を覆されましたから(笑)。

黒部ディスプレーも、チェスターバリーのストライプスーツにステットソン(150年の歴史を誇るアメリカのフィラデルフィアで誕生した帽子メーカー)のテンガロンハットを合わせて、足元はウエスタンブーツとかね。「なんじゃ、こりゃ」みたいな(笑)。

鴨志田いかにスタイリングが大事か、というのを気づかせてくれたのがフレンチアイビーだったんです。いまでもバリバリ現役ですけど、マルセルラサンスなんかもカッコよかったですし……。例えばボタンダウンシャツって、我々にとってブルックス ブラザーズにしろ、J.プレスにしろ、こうでなければいけないっていうバランスがあったじゃないですか。ステッチが何ミリでとか。ところが、フランス人がつくるボタンダウンって襟がショートポイントだったり、アレンジの加減が絶妙なんですよね。ボタンダウンという襟型はあくまでデザインのひとつであって、フランス人にとっては伝統でもなんでもないですからね。フランス流のボタンダウンはこうだ、みたいな。当時、買ったイヴ・サンローランのボタンダウンシャツはいまでも着ていますけど、めちゃくちゃカッコいいんですよね。

黒部いま見ても、新鮮ですよね。

鴨志田当時はネイビーブレザーもサンローランで買いましたけど、ワイドラペルでカッコよかったですね。とにかく80年代はそういうフレンチアイビーがブームになった時代でした。

黒部あのときはパリ詣というか、海外出張に行くとパリは必ず立ち寄りましたよね。

鴨志田そうですね。メンズの合同展示会も、いまみたいにピッティ・イマージネ・ウオモじゃなくて、パリのセムがいちばん大きかったので。

黒部同じネイビーブレザーを着ていても、パリジャンのスタイルはちょっと違って見えるのがおもしろかったですよね。

鴨志田ドレスダウンのカッコよさを教えてくれたのが彼らでした。

黒部その一方で、フランスにはタイユールと呼ばれる伝統的なビスポークの世界もあるわけですが、鴨志田さんはチフォネリ(1880年創業のパリの名門テーラー)でもオーダーしていますよね?

鴨志田ええ、何度かしています。イタリアのクラシックも、ブリティッシュの本流も、ひと通り体験してみて、やっぱり70年代のフランスってカッコよかったなと思ったときに、当時を代表するスーツといえばチフォネリですから、チフォネリでつくってみたいと思ったんですよ。コンケーブしたショルダーとか、ほかの国のテーラーには絶対にない雰囲気がありますから、これはもうフランスでつくるしかないと。とにかく、つくって、着てみないとわからないですからね。

黒部70年代とか、80年代初頭のアラン・フラッサーも“清水買い”だったと思いますけど、随分と高かったでしょうね?

鴨志田はい、高かったです(笑)。でも、あのころはお金があれば、全部、洋服に注ぎ込むのが当たり前だと思っていましたから。先のことは一切考えていない時代ですし……。いまでもそうなんですけどね(笑)。

黒部仕事をするうえでの、ある種の投資ですよね。エンゲル係数と言えば、普通は消費支出における食費の割合を指しますが、“ファッションエンゲル係数”とでも呼べばいいんでしょうか? 鴨志田さんの場合、それが突出していたんでしょうね。



対談のお相手

鈴木 晴生

ユナイテッドアローズ クリエイティブ・アドヴァイザー鴨志田 康人  かもした・やすと

1957年東京都生まれ。多摩美術大学卒業後、82年にビームス入社。店舗スタッフを経て、企画・バイイングを担当。89年にビームスを退社後、ユナイテッドアローズ設立に参画。メンズクロージングの企画・バイイング、店舗衣装などのクリエイションのソフトを担う。2004年にユナイテッドアローズのクリエイティブディレクターに就任。07年には自身のブランド「Camoshita UNITED ARROWS」をスタートし、ピッティ・イマージネ・ウオモに出展。13年、同ブランドがアジア初の「ピッティ・イマージネ・ウオモ賞」を受賞。18年より現職。

カルロ黒部が惚れ込んだ
Mediterraneanのアイテムリスト

ANGLAISのジャケット

何はなくとも、男にはネイビージャケットが不可欠です。そして、大事なのは素材感。このアングレーのネイビージャケットはリネン60%×コットン40%で、目の粗いざっくりとした風合いが魅力。やや明るめのトーンも陽光の下で映えますね。

HARRISSのシャツ

ネイビーのジャケットやブレザーに合わせやすいのが、同色系チェックのシャツ。ボタンダウンカラーなので、ノータイでもサマになります。素材はリネン100%で、実に涼しげ。アイロンをかけず、洗いざらしで着るのがおすすめです。

TEORIAのタイ

鴨志田さんも愛用しているタイ ユア タイの創始者であるフランコ・ミヌッチが若い世代に向けて発信するブランドが、このテオリア。トラディショナルなレジメンタルですが、大剣幅は8cmでモダンな印象ですね。イタリア製の品質にも太鼓判。



  • ※掲載商品は定価表示となっております。
黒部 和夫

カルロ インターナショナル代表黒部 和夫 くろべ・かずお

1958年生まれ。83年にオンワード樫山に入社し、一貫してメンズ企画部門を歩む。メンズ商品開発室長、プレス責任者を務める一方、日本流行色協会、日本アパレル・ファッション産業協会、日本メンズファッション協会、繊維ファッション産学協議会の委員を歴任。2008年にはプルミエールヴィジョン(権威あるフランスの世界最大級の素材展示会)の「明日のメンズファッションを語る世界の4人」に選出される。14年に独立し、カルロ インターナショナルを設立。カルロ黒部の愛称で知られ、ファッションコンサルタント・評論家として多方面で活躍中。

photographer/ Takashi Nishizawa
writer/ Toshiaki Ishii
editorial director/ Kenji Washio

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